新聞に載らない内緒話 Vol.03
桜、北上
「花の雲鐘は上野か浅草か」 江戸深川で、芭蕉が詠んだ句である。雲と見まがうばかりの、桜の盛りが「花の雪」に織り込んである。のほほんとした空に、鐘の音がゆったりと漂ってゆく。
例年、東京の桜は3月末あたりが満開である。桜の名所は数々あれど、作家の池波正太郎さんが愛したのは、上野寛永寺・両大師堂の境内にある「御車返しの桜」だった。この桜は、一本の木に一重と八重の淡い紅色の花が同時に咲く。
ここの桜は咲くのが遅い。上野恩賜公園や不忍池周辺の桜がひとしきり咲き乱れ、葉桜になった頃、池波さんは保温ボトルに熱かんを詰め訪れた。陽が傾き、カラスがねぐらに帰るころ、静まりかえった境内でひとり桜を眺め、酒をふくむ。絶景であると、何かのエッセイに書かれていたと思う。東京の桜が散った頃、東北本線(在来線)に乗って北上してみたらよい。落花1週間後ほどが見ごろと思うが、例えば「宇都宮を過ぎるあたりから散り残った花びらが現れ、白河、郡山と進むにつれてビデオを逆回転させたように桜の美しさがよみがえり、大河原―船岡間の白石川堤までくると満開になった。白石川は車窓の花見としては最高だと思う」と書いたのは、鉄道作家・宮脇俊三さんだった。
同氏が編集委員を務めた「鉄道歳時記」(小学館刊)に見える記述である。
「時期を見計らって東北新幹線の上り列車に乗ってみるのもおもしろいだろう」。桜の蕾(つぼみ)から散るまでの花の生涯が「わずか1時間ぐらいで」車窓から楽しめる。梅が「春のめざめ」なら、桜は「爛漫(らんまん)」であろう。日本という国の「長さ」を感じるのもこの季節である。
1月、避寒桜の沖縄地方から、津軽海峡を桜が超えるのはゴールデンウィークであり、北海道の桜は五月(さつき)なのだ。
いずれサラリーマン生活に終止符を打ったら、長い長い桜の旅に寄りそってみたい。
散る桜残る桜も散る桜―。 桜とは、咲く前からすでに思い出のような花である。